訴  状

 

2007年  月  日

 

    ○○地 所 御

 

原告  ○○ ○○       

 

訴訟物の価額  金         円

貼用印紙額      金      円

 

 

 

当事者の表示

原告ら当事者目録のとおり

被告ら当事者目録のとおり

 

 

 

( 請 求 の 趣 旨 )

 

1、被告らとの関係において、2006年12月15日成立した改正教育基本法は憲法違反であり、無効であることを確認する。

 

2、被告らは、各自、原告それぞれに対し、金10円及び、2006年12月15日より完済までの間、年5分の割合による金員を支払え。

 

3、訴訟費用は被告らの負担とする。

 

との判決及び2項について仮執行の宣言を求める。

 

 

( 請 求 の 原 因 )

 

第1、当事者

 

 1、原告

  () 日本国籍を有する○○県民であり

  () ○県に住む韓国国籍を有する者であり

  () ○○県以外に住む日本国籍を有する者であり

  () 日本以外に住む日本国籍を有する者であり

  () 日本に住む中国国籍を有する者であり

  () 日本に住む韓国国籍を有する者であり

  () 韓国に住む韓国国籍を有する者であり

  () 香港に住む中国国籍を有する者であり

 

 2、被告

  ()

  ()

  ()

  ()

  ()

  ()

  ()

  ()

 

 

第2、改正教育基本法の憲法違反

 

 1、権力拘束規範から子供・親・市民への命令規範へ

―教育勅語への回帰―

 

   政府は、2006年12月15日、現行の教育基本法の「全部を改正する」法案を国会で可決し、改正した(甲第1号証)。この改正法は、現行法(昭和22年法律第25号)を「全部改正」するかたちをとっているが、実質的には現行法を廃止し新教育基本法を制定しようとするものである。それどころか、「全部改正」法は、教育基本法の法としての性格を根本的に転換し変質させた。

 

   改正前の教育基本法は、憲法と同じ1947(昭和22)年3月31日に公布し施行された。前文と全11条からなるシンプルな法であるが、その意味内容は、むしろ歴史とともに豊かになり、21世紀においても十分対応できるだけの深さを有していると言われている。それは第一に、その前文に「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とあるように、憲法価値を教育により実現しようとしたものであり、憲法と不可分一体をなす〈準憲法的〉な性格を持つ法律である。第二に、同法は、憲法26条の「教育を受ける権利」を実現するために営まれる教育の基本原理を定めたものであり、〈教育憲法〉としての性格を持つ法律でもある。

 

   このような法的性格を持つものとして成立した改正前教育基本法は、一方で「教育の機会均等」と定めた3条や、「男女共学」をうたった5条などに見られるように、憲法下の新しい教育の〈あるべき筋〉を打ち出したものである。他方で、学校における政治的活動を禁じた8条2項や、公立学校における宗教的活動を禁じた9条2項などが示すように、教育の〈あってはならない筋〉を明示するものでもある。

 

このように改正前教育基本法の各条項は、いずれも「教育を受ける権利」を保障し実現する責務を負う者に向けて、教育に関する〈あるべき筋〉と〈あってはならない筋〉を明示した法規範であり、その名宛人を公教育について責任を負い「権力」を行使する者としていることは明らかである。その意味で、改正前教育基本法は、教育を受ける者との関係において「権力」を行使する者に対して、「すべきこと」と「してはならないこと」を命じた規範であって、教育を担う公権力(特に教育行政権力)に向けられた〈権力拘束規範〉であることをその本質としていると言っても過言ではない。教育の直接責任制を掲げ教育行政の条件整備義務を定めた改正前教育基本法10条は、この法律が何よりもまず、教育行政権力に向けられた〈権力拘束規範〉であることを端的に示している。

 

このように、改正前教育基本法がすぐれて教育行政権力に向けられた〈権力拘束規範〉としての性格を有する法律であることは、同法が不可分一体をなす憲法の立憲主義的意味に基づくことによるのである。

 

権力拘束規範である憲法と不可分一体をなす改正前教育基本法が、その名宛人を教育行政権力とする〈権力拘束規範〉であることは、憲法がすぐれて〈権力拘束規範〉である本質に倣ったものであり、近代立憲主義に合致するものであることは言うまでもない。

 

改正前教育基本法の名宛人が教育行政権力であり、教育行政当局の教育へのかかわりの仕方に枠をはめ、その権力行使のあり方を拘束することに法の基本的役割があることは、法の世界では争いようのないことである。それは他方で、改正前教育基本法が教育を受ける権利を有する子供や、それをサポートする親・市民に直接に向けられたものではなく、これらを規範的に拘束しようとするものでないことを意味していることも確かである。

 

 ところが、改正教育基本法は、2条において教育の目標を詳細に規定し、子供が教育において目標とすべき「伝統と文化を尊重し」「わが国と郷土を愛する」態度を養うことも目標としている。また、6条2項において「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことを求めている。さらに、10条の家庭教育において父母らに「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことを求めた上で、13条で、「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と義務付けようとしている。

これらの規定に顕著に見られるように、改正教育基本法は、〈権力拘束規範〉であった改正前教育基本法の本質を大きく転換し、これを〈子供・親・市民への命令規範〉にもしようとするものであり、法の基本性格を変質させたものであると言ってよい。

 

しかし、法や規範への忠誠を国民・市民に求めるのは、そもそも〈忠誠の排除〉を求めて「教育勅語」に代えて新しく定めた改正前教育基本法を「父母ニ孝ニ」に始まる徳目の最後に「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」と挙げていた「教育勅語」に、再び限りなく回帰させようとするものである。

 

最近、憲法を「国家権力を制限する規範とするにとどまらず、国民の行動規範とし国民への命令規範へと変えようとする」動きに対して、近代立憲主義の立場から警鐘が鳴らされている。改正前教育基本法の「全部改正」法は、憲法をめぐる昨近の動きとも軌を一にするものであり、改正前教育基本法と不可分一体をなす憲法の〈権力拘束規範〉的な基本性格をも大きく変質させることに拍車をかけ、近代立憲主義自体を根底において掘り崩すことになりかねないものである。

 

 2、憲法及び子どもの権利条約違反の改正教育基本法

 

   改正前教育基本法が、教育の基本理念と基本原理を定めた〈教育憲法〉であるだけではなく、憲法価値を実現するために憲法と不可分一体なものとして定められた〈準憲法的性格〉を持つ基本法であることは、既に憲法の制定審議過程における田中耕太郎文部大臣(当時)の答弁や教育刷新委員会の審議録において明記されており、また旭川学力テスト事件に関する最高裁大法廷判決(1976年5月21日)の中でも確認されている。改正前教育基本法は、憲法価値を積極的に実現する教育の基本法として定められたわけであるから、その「見直し」「改正」にあたっても、憲法に照らし合わせて行わなければならないことは言うまでもない。

 

憲法とならんで、もう一つ、検討の基準・指標にすべきものは、子どもの権利条約を中核とする国際準則である。

 

とりわけ、子どもの権利条約28条は教育への権利、同29条は教育の目的について明確に定めており、特に29条の教育の目的については、子どもの権利委員会が2001年1月25日に、いわゆる一般的意見(ジェネラル・コメント)を採択して、その意味を具体的に解き明かしている。従って、これらの国際的な基準に沿うことが、グローバル化の進行する国際社会において、日本が真の尊敬を得ることのできる姿勢だと言える。

 

いずれにしても、改正前教育基本法の問題を検討する際の指標となるものは、他ならぬ憲法と子どもの権利条約などの国際準則であり、この二つの指標に照らすとき、看過できない問題が存しており、以下では4点に絞って指摘する。

 

 3、教育目的を有為な国民の育成とする憲法違反の改正教育基本法

 

   その第一は、国家が教育目的として「新しい時代を切り拓くたくましい日本人」の育成を掲げその観点から教育基本法の理念や原則を「見直し」(中教審)、その結果「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成を期」すことを教育目的に据えること(改正法1条)が、憲法や子どもの権利条約の立場から問題とはならないのかということである。

 

   憲法26条は「教育を受ける権利」を保障しているが、国家が教育に関して規範的な枠組みを作るにあたっては、二つの立場がある。憲法の保障する教育を、国家との関係において目的論的に、憲法学者の奥平康弘教授の言葉を借りれば、コンセクウェンシャリスト的(帰結主義的、効果主義的)な立場で捉えるか、それとも、ノン・コンセクウェンシャリスト的な立場、つまりは教育をそれ自体として個人人格本位で捉えるのか、ということである。

 

前者の目的論的な立場は、教育をそれ自体としてではなく、何か他の目的を達成するための手段、もう少しあからさまに言えば、教育を目的達成のための道具として捉える考え方であるから、国家的観点、国家目標などから教育を捉え、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民を育成する」ことは、教育を目的論的に捉えていることになる。

 

これに対して、後者のノン・コンセクウェンシャリスト的な立場は、教育をそれ自体として、教育を受ける権利を有している人本位に捉え、人間の自立や人格的発展に向けて捉えようとする考え方であり、教育をあくまでも一人ひとりの人間の自己形成を支え育むものとして捉えてゆこうとするものである。憲法が前者ではなく後者の立場で教育を捉えていることは、個人の尊厳の保障に憲法の究極の価値をおいていること(13条)からも明らかであり、憲法学説の多くが現在とっている基本的な立場でもある。最高裁が旭川学力テスト事件判決において、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入…は憲法26条、13条の規定上からも許されない」と判示して、「子どもの自由かつ独立の人格」と機軸に据えていることの中にも、教育を受ける権利の主体である子ども本位への方向を看取することができる。

 

教育をこのように、一人ひとりの人間の自己形成を支え育むものとして捉えてゆこうとする立場は、ひとり憲法だけがとっているわけではない。子どもの権利条約29条は、教育の目的として、子どもが自己の「能力をその可能性の最大限度まで発達させる」ことや、「自由な社会における責任ある生活のために…準備する」ことを権利として保障している。子どもの権利委員会は、その意味について、先に述べた〈一般的意見〉の中で、「この条文は、子ども中心の教育というメッセージを強調している」としたうえで、「教育を、子ども中心の、子どもにやさしいもの」にするとともに、「教育の全般的目的は、自由な社会に全面的にかつ責任をもって参加するための子どもの能力及び機会を最大限に増進することにある」と強調し、国際的に承認される教育が「子どもにライフスキルを与え…人間としての尊厳、自尊感情および自信を発達させることにより、子どもをエンパワーすることにある」として子ども本位の教育観を明確に採っている。

 

しかし、「国民の育成」を教育目的として設定することは、教育を個人人格のためではなく国家のために営むことを意味しており、教育を目的論的にとらえ、国家目的の道具に貶めようとすることにほかならないので、憲法や子どもの権利条約などの国際準則が採っている個人人格本位主義とでもいうべき立場に反し、これと相容れないことは明らかである。

 

 4、教育目標の法定と〈政府言論〉としての「国を愛する」態度の求めは、思想・良心の自由の保障に反し、違憲である。

 

   二つめは、教育目標として、「伝統と文化を尊重し」「我が国と郷土を愛する」態度を養うなどの「徳目」を法定すること(改正法2条)には、憲法や子どもの権利条約などの国際準則から見て、どのような問題があるのかという点である。

 

法案2条に示された教育目標は、改正法5条・6条2項に基づく学校教育、家庭教育に関する10条、社会教育に関する12条や学校・家庭及び地域住民等の相互の連携協力に関する13条にも及ぶとされているので、「全部改正」法が全体として教育を通しての「国民精神統制法」の色彩を帯びるものとなっていることは否定できない。

 

いずれにしても、ここには、公教育制度とりわけ義務教育制度を用いて、国家が「送り手」として、いわゆる政府言論(government speech)を、「受け手」である子どもに送り届けようとする強い意思の顕れを見て取ることができる。「受け手」である子どもは、学校という閉鎖空間の下では、憲法学上の「囚われの聴衆」(captive audience)として位置づけられているので、「教育とは、「囚われの聴衆」に宛てたgovernment speechに対し、政府が冠した美称である」とさえいわれている。

 

「我が国と郷土を愛する」態度を養うとの点について、まず「郷土」は、私たちの身近に存するものとして、ある種の実体的イメージを持ったものとして具体的に把握することができるのに対して、「国」は近代国民国家ではステートとして何よりも統治機構であり、権力機構として抽象的なイメージしか持ち得ない、かなり観念的な存在である。二つは質的に異なっており、同列には並べられないはずである。私たちの実感においても、郷土を愛することと、国を愛することとの間には大きな隔たりがあり、郷土を愛し郷土に親近感を持つことが、すぐさま国に同様な気持ちを抱くことへとつながらないことは、日常的にも経験しているとことである。それにもかかわらず、二つを同列に並べて、愛する(態度を養う)対象とすることは、結局、郷土への自然な感情をもって、政治的共同体としての国に対する同様の感情の惹起を擬制しようとするものである。そうした擬制は、かつてナチス・ドイツが、国民の愛国心を高揚させる目的で、「郷土愛」(heimat liebe)の教育を組織的に行ったという歴史を想起させずにはおかない事柄である。

 

いずれにしても、「郷土や国を愛する心」とりわけ「国を愛する心」を公教育の場で強調することは、何よりも思想・良心の自由の保障を第一義的に重視している憲法の立場に抵触する。そもそも人が個として国家との間でどのような距離・スタンスをとるかは、その人の根元的な生存の姿勢に深くかかわっており、個人人格の核をなすものとして自由に選択できることができるはずである。国家は個人の内面的価値のありように関心を持たないし持ってもいけないという近代国民国家の基本原理は、近代憲法典の多くが良心の自由の保障条項を真っ先に掲げている点に端的に表れている。

 

本来教育には人間の精神に働きかけて価値の注入を行おうとする面があることは否定できない。それが公教育として子どもに対して行われる場合、子どもはその場からの離脱が事実上困難である「囚われの存在」であって、価値注入を拒むことができないことに留意すべきである。「国を愛する」態度を養うことを公教育の場において求めること、そのような特定の価値・観念や精神態様を公教育において子どもに対して一方的に 唯一選択が可能なものとして 押し付けることは、憲法19条の良心の自由を侵すことになることは明らかである。思想・良心の自由の保障が、思想・良心を自由に形成することをも含むものであることも憲法学の通説となっており、「成長のどの段階においての、国家による特定の観念の強制は、個人の人権に対する侵害そのものである」といわれている。

 

 

 5、「国を愛する態度」を養うことを教育目標とすることは、子どもの権利条約・最高裁旭川学力テスト判決に反する。

 

また、改正教育基本法が、中教審のように「心」ではなく「態度」と変えたとしても、「態度を養うこと」を公教育の場で求めるならば、結局はある種の外形的な「態度」を公定することになり、そうした目に見えるかたちでの「態度」がとられたかどうかをチェックして、その到達度(教育目標から見た)を評価することは避けられなくなる。そこで子どもは「踏み絵」を踏む「態度」をとるか否かの〈態度決定〉を文字通り迫られ、自ら選び取った「態度」が厳しい評価にさらされることを覚悟しなければならない場面に直面することもある。逆に、日本社会に根強く残っている同調圧力の下で、子どもたちの世界にうわべだけの「虚偽の愛国心」が横行するという、滑稽で皮肉な事態が現出しないとは言えない。いずれにしても、子どもの「態度」への評価・介入を通して、子どもの「心」への介入が実現されることになる。最高裁が旭川学力テスト事件大法廷判決において、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことは許されない」し、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される」と厳しく釘を刺し戒めていることを、もう一度思い起こすべきである。

 

また、子どもの権利条約29条1項は、「子ども自身の文化的同一性、言語及び価値の尊重、子どもの居住国及び出身国の国民的価値の尊重並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」を教育の目的として特にあげている。先の〈一般的意見〉によれば、この規定は、「教育が広範な価値観を指向して行われること」を求めており、いわゆる「多文化共生教育」を公教育において実施することを要請しているとされている。この「多文化共生教育」を公教育において日本に住むすべての子どもに対して行いながら、他方で、ことさらに特定の「国を愛する」態度を子どもに求めるならば、子どもたちの内心に新たな緊張・葛藤や内的矛盾を感じさせ、子どもたちの集団にいわれのない疎外や排除、差別などを引き起こすことになるおそれがある。「国を愛する」態度を養うことを教育目標に据えることは、子どもの権利条約の規定からも同条約違反であるとの厳しい批判にさらされるのである。

 

 6、改正教育基本法16条の憲法違反

 

改正教育基本法16条は、改正前教育基本法(以下「改正前」という)10条1項の「教育は、不当な支配に服することなく」という文言だけは残したが、それに続く「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」との文言は削除し、代わって「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」と規定した。また、改正前10条2項2を全文削除し、「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適切に行われなければならない」と新しく規定(16条1項後段)し、国に対しては、「教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し実施」する義務を課した(16条2項)。そのうえで、17条を新設し、政府には「教育の振興に関する施策についての」「基本的な計画」を定める権限を付与し、地方公共団体には「地域の実情に応じ」た教育振興基本計画を定めるよう「努める」義務を課している。

 

しかし、改正前10条の教育の直接責任と教育行政の条件整備義務の原則は、戦前の教育に対する反省に基づいて定められたものであり、教育がときの国家権力の政治的な意思に左右されずに、自主的・自律的に行われることを保障するうえで重要な役割を果たしてきた。従って、この二つの原則を削除したうえで、教育が「法律の定めるところにより行われるべき」とすることは、「不当な支配に服することなく」という文言を残したとしても、改正前法10条の立法趣旨を根本から否定することになる。

 

すなわち、教育は「不当な支配に服することなく」「法律の定めるところにより行われるべき」とすることは、法律に根拠がある限り、教育行政による教育内容への過度な介入も適法化されて、「不当な支配」に該当しないことになるおそれがある。他方、法律に定められたもの以外、たとえば、教師や子ども、保護者、地域の人々の意見などは、「不当な支配」として排除され、これら現場の声を教育に反映させることができなくなるおそれが生じる。こうして、残された「不当な支配に服することなく」という文言は、法規範として全く逆の意味を持つことになる。

 

旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決は、教育が「本来人間の内面的価値に関する文化的な営み」であり、「教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」として、国家の教育内容への介入に対して身長に歯止めを課したうえ、改正前10条について、「教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き…教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきである」として、教育行政も「不当な支配」の主体となりうると判示している。

 

改正前10条2項の規定をあえて削除したうえ、国に教育に関する施策の策定権限を付与するのは、教育行政の役割を「条件整備」を超えて教育内容の決定にまで拡大させ、教育の自主性・自律性を奪うことを正面から認めることを意味する。

 

また、17条1項は、政府に対して教育振興基本計画の策定と国会への報告、公表を義務づけているが、これは、16条1項の規定と相俟って、国会が教育内容の決定に深くかかわり介入してくることを正面から認めることになる。また、自治体の教育振興計画の策定も、その主体が教育委員会ではなく、自治体当局とされているので、首長部局による政治主導の計画策定となるおそれがある。

 

このように、改正前10を解体し、16条と17条に組み換えることは、ときの政治権力が教育内容を統制し教育現場の自主性・自律性を剥奪するための法的整備であると言うより他ないことになる。これにより、教育基本法は、教育の自主性保障法から教育の権力統制法へと、180度転換させられたことになる。

 

 7、以上のように、改正教育基本法は憲法違反である(甲第1、2号証)。

 

 

第3、やらせによる違法なタウンミーティングにより世論を誘導して成立した違法・違憲の改正教育基本法。

 

 1、以下のとおり、改正教育基本法は、違法なタウンミーティングにより世論を誘導して成立した違法・違憲の法律である。

 

  @ 小泉内閣時代に計174回開かれた政府主催のタウンミーティング(TM)を調べていた政府のTM調査委員会(委員長・林芳正内閣府副大臣)は平成18年12月13日、最終報告書をまとめた。事前に質問内容まで指定して発言を依頼する「やらせ」質問15回に加え、一般参加者を装った発言依頼が29回、国が自治体に「動員」を依頼したケース71回が新たに判明した。安倍首相は自らに対する「処分」として、報酬約100万円を国庫に返納する意向を表明した。

 

  A 首相は平成18年12月13日夜、首相官邸で記者団に「首相の俸給3ヶ月分を国庫に返納したい。当時の官房長官としての私の責任の取り方だ」と語った。首相の報酬は月約234万円だが、財政再建のために3割を自主返納している。さらに議員としての報酬分約130万円は受け取るため、今回の返上は3か月分で計約100万円となる。

 

首相自らが不祥事のけじめとして報酬を返納するのは極めて異例。14日にも幹部ら関係者の処分を行う方針で、塩崎官房長官や伊吹文部科学相ら関係閣僚も返納する方向で調整している。

報告書は「やらせ」について「政府の方針を浸透させるための『世論誘導』ではないかとの疑念を払拭できない」と明記した。

 

  B 「やらせ」質問などが判明した政府主催のタウンミーティング(TM)問題で、政府は平成18年12月15日、国家公務員法や各府省内規に基づき、内閣府、文部科学省、法務省の職員ら計26人の処分を決めた。内閣府は、内田俊一事務次官を訓告、谷口隆司TM担当室長を戒告とするなど16人を処分すると発表した。TM室は16日付で廃止される。内田次官は処分に加え、給与10%を1ヶ月分(約13万円)国庫に自主返納する。文科省は銭谷真美初等中等教育局長ら8人、法務省も2人の処分を決めたが、国土交通省は「処分するのは酷」(冬柴国交相)と見送った。

 

内閣府は、内田次官、谷口室長のほか、勝野堅介・賞勲局長(元担当室長)、長谷川秀司・担当室参事官、田辺靖夫・大臣官房付(元担当室参事官)の3人が訓告、土肥原洋、竹沢正明、両担当室次長、西達男国民生活局長(元担当室次長)、松田敏明大臣官房審議官(同)、福富光彦会計課長が厳重注意。山本信一郎官房長は訓告。中藤泉、成田一郎・両元担当室次長、大森雅夫元会計課長、音瀬均元担当室参事官ら現在他省庁にいる職員は厳重注意を所属官庁に依頼した。

 

文科省は教育改革TM分について、質問案の作成にあたった教育再生会議担当の内閣参事官白間竜一郎・前広報室長を訓告。「活発な議論が行われるように」などと「やらせ」を示唆した銭谷氏、「やらせ」を了承していた布村幸彦官房審議官も訓告となった。また、白間前広報室長の後任だった高橋道和生涯学習推進課長のほか4人を文書厳重注意に、玉井日出夫官房長を口頭厳重注意とした。

 

法務省は司法制度改革TMの指揮に当たった当時の刑事局長、大林宏事務次官と、当時の官房長、小津博司刑事局長をそれぞれ厳重注意処分とした。

 

C 「やらせ」質問の内訳は、司法制度改革6回、教育改革5回、地域再生1回など。国の要請による自治体などの「動員」71回のうち、39回は「応募状況をみて途中から参加依頼」したケース。そのうち2回は、動員した職員に旅費を支払っていた。

 

一方、内容までは指定しない事前の発言依頼は105回に及び、このうち81回は一般参加者にわかる形で司会者が紹介していた。25回65人に謝礼金5千円を支払っていたが、「やらせ」依頼で謝礼金を払った事例はなかったという。

 

塩崎官房長官は司会者が紹介して口火を切ってもらうケースについては「問題ない」としていたが、報告書は「この場合にも、進行の仕方次第では公正さが失われるケースも考えられる」と指摘。今後はパネリストなどを除く事前の発言依頼を「厳に慎むべきだ」と明記した。

 

D 「抽選工作」も違法であることが判明した。2005年11月の「文化力親子TM イン 京都」では「指名されなくても大声を発したことのある人物とその関係者が応募している」との事前情報を受け、該当者の応募受付番号の末尾の数字を操作して、落選するように仕向けていた。主催者側にとって都合の悪い参加者を恣意的に排除したもので、報告書は「決して認められるものではない」と指摘している。

 

E TM運営を請け負った電通、朝日広告社との契約では、会場での送迎4万円やエレベーターから控室までの誘導で2万9千円などを「一般常識からは理解しがたい単価の設定」と認定。精算業務のチェックを「極めて脆弱」と指摘した。

 

  F 以上のように、本件タウンミーティングは、内閣総理大臣自身がその違法性を認め責任を取っているほどの、違法性の大なるものである。

このようなタウンミーティングで世論を誘導して成立した改正教育基本法は、違法、違憲であることはいうまでもない(甲第3〜5号証)。

 

 

第4、違憲立法審査権の性格と司法権の概念

 

 1、最高裁昭和27年10月8日警察予備違憲訴訟判決。

 

憲法81条で最高裁に認められた違憲審査権は、具体的事件性、争訟性を前提にして、司法権に付随して行使される司法裁判所型のものであるとする。

 

 2、違憲立法審査権の性格を最高裁判所自体が判断・明示することの不当性。

 

憲法41条により、国会で判断すべきである。最高裁が、違憲立法審査権の性質を判断すれば、具体的事件を離れて抽象的審査を可能とする憲法裁判所型のものという判断にならないことは明らかである。なぜなら、憲法裁判所型になれば、最高裁の事務量が非常に多くなるから(上記判文中に最高裁自体が名言する)、そのようなことを最高裁自体が認めるはずがない。

 

そもそも、違憲立法審査権の性質及び最高裁の性格がどのようなものであるかを最高裁自身が決するということが、日本国の全機構上可能かということである。

 

これは、国権の三権分立の問題を超えた問題であり、そのため、憲法41条が、そのような場合のため、国会を国権の最高機関と定めて、国会が三権の最上位に位置すると規定しているのである。

 

従って、国会の議決により、違憲立法審査権の性質を決めるべきであり、最高裁の判決で決めても無効であるべきである。

 

 3、最高裁判決自体の手続違反

 

なお、上記判決は、最高裁に直接訴を提起した上記訴に対し、判決文中で、「かかる訴訟については、最高裁のみならず如何なる下級裁判所も裁判権を有しない。この故に、本訴訟はこれを下級裁判所に移送すべきものではない。」と判示し、不適法却下とした(甲第6号証)。しかし、争訟性を前提とすると最高裁自体が判示するのであれば、下級裁判所に移送し、具体的な事件としての主張を待って、裁判所として判断すべきであり、この点からも最高裁としては、判文とその行動が一致していない。不適法却下した点においても上記裁判は不当であり、無効である。

 

 

 4、憲法81条は、最高裁判所に対して、司法裁判所としての性格と憲法裁判所としての性格をともに直接認めている、と解すべきである。

 

以下、その根拠を述べる。

その根拠は、@憲法前文第1段後半、98条1項、76条1項、76条3項から、「憲法及び法律の二種の法が相抵触するならば、下位の法である法律を無効とし、上位の法である憲法を適用するのは当然である」ので、最高裁判所、下級裁判所を問わず裁判所は、司法権の行使にあたって必要とされる限度で違憲立法審査権を有することは、憲法81条によらないでも導き出されること。A憲法81条が司法権一般の規定として第6章の「司法」の冒頭におかれず、終わりの1条として設けられ、かつその規定の中で76条と異なり、最高裁判所のみを挙示したことは、憲法裁判所としての任務を最高裁判所に託したものであること(甲第7号証)。B以上の次第で、改正教育基本法が憲法違反であることを求めるものである。

 

 5、以上のことから、昭和27年10月8日の最高裁判決は無効である。

 

   昭和27年10月8日最高裁判決は無効であり、違憲立法審査権及び最高裁の性格に対する正当な判決は無い。

 

日本国において、違憲立法審査権及び最高裁の性格を決しようとするのであれば、憲法41条に基づき国会決議で決しなければならない。

 

国会決議が無い以上、最高裁は、憲法裁判所としての性格を有するとして裁判をすべきである。

そうすると、本件改正教育基本法の違憲性を判断すべきである。

 

 

第5、被告らの不法行為

 

 1、被告らの憲法擁護義務(憲法99条)

 

   被告らは、憲法99条により憲法擁護義務があり、違憲の法律を成立させてはならない義務がある。

 

   @ 第10章最高法規のなかに収められた条項中に、憲法擁護義務がうたわれている。最高法規とは、最高の法即ち他のいかなる法に対しても優越する地位を持つという意味である。本章にあらわれた最高法規の観念は近代の立憲主義思想とむすびついたものといわれている。

 

イギリスの中世において、封建領主達が王から戦いとった大憲章、あるいはブラックトンの「王は何人の下にもない、併し神と法とには服さねばならない」という言葉のうちに芽生えている、国家の根本法には主権者も従わなければならないとの思想は、スチュアート諸王の絶対王政に反抗し、これを屈服せしめて近代英国を築き上げた議会と裁判所とによって結実せしめられた。それは、一切の専制的権力を否定し、英国人は法に支配されるが、法以外の何物にも支配されないとする法優位の大原則を生み出したのであった。根本法の保障する基本的人権の絶対法や、国家権力をも根本法に制約されるというような内容を含みつつ、法優位の思想は、英国憲法のなかを脈々として流れているのである。かかる法優位の原則が最高法規の観念の制度的背景をなしていることは、疑をいれない。この法優位の原則を高唱している英国憲法を眺めつつ、近代専制時代のフランスの諸学者は、その憲法思想を樹立していった。それは、最高法規の観念の思想的基礎づけを行ったものといえる。なかにも、モンテスキューの説くところは、最も精彩に富み、我々に示唆を与えるものである。例えば、彼は、君主政体の性質を述べるにあたって、次のように説いている。「従属的な仲介的権力が、君主政体、即ち一人が基礎法によって統治する政体の性質を形づくる。私は従属的な仲介的権力といったが、まことに、君主国では、君主がすべての政治的並びに市民的権力の源泉なのだ。これらの基礎法は、必然的に権力の通ずべき中間の通路を予想する。なぜなら、もし国内に一人の瞬時的な気紛れな思想しかないとすれば、何ものも固定的であり得ず、従ってまた何らの基礎法もあり得ぬだろうから」と。君主制を対象としているが、この論旨は、憲法が最高法規として、国家権力を拘束し制約する根本法として存在し、恣意的専制を抑止するものであることを指摘する点に、意義が深いとみるべきである。最高法規という観念は、このようにして、英仏両国の制度的かつ思想的な展開のうちに、成熟していったといえる。

 

   A このような英仏二国で育まれた最高法規の観念は、米国憲法に具体化した。その第6条は、歴史的意義をもつ第1項を除き、最高法規の条項といえるであろう。第2項は憲法及びそれに準拠する法律及び条約が、国の最高の法であるとし、第3項は公務員の憲法遵守義務を明示している。それは、わが憲法第10章が直接の影響を受けたものである。しかし、米国憲法の最高法規条項は決して連邦制の要石たる意味をもつにとどまらない。英仏両国の思想的、制度的意味を承継し、国家権力の被制約性を強調する伝統的な観念もまたそのなかに生きている。かかる観念こそ、わが憲法のなかに流れ込んだものであり、この第10章の存在を支えているものといわなければならない。かかる歴史的な背景に照らして、はじめて第10章の意義の真の理解、憲法擁護義務の真の理解が可能なのである。

 

   B 被告らの憲法尊重擁護の義務

 

     憲法は、国の最高法規である。このことは前述のように、根本法は国家権力をも制約するものであるとの思想的背景の下に成立してきたものである。従って、国家の権力を行使する者が、この根本法を遵守して、国政を行うことは、必然の要請でなければならない。この憲法は、まさに人による支配ではなくして、法による支配を命じているのである。憲法99条は、そのような基盤の上にたって、国政を担当するものに対して、憲法を尊重し擁護する義務を明示しているのである。もとより当然の事理であるけれども、最高法規の章の下に存する点において、憲法99条が右のような背景を負うものであることを示唆するとともに、一層この義務制を荘重に宣言していることを銘記しなければならない。特に旧憲法下において、国家の指導的立場にある者によって、少なくとも憲法の精神を裏切る行為がなされ、絶対専制的な政治体制へと転移していったあとを顧みるならば、この公務員の義務の強調は経過規定を除く憲法の最後の条文として、誠に処を得たものといえるであろう、といわれている。

 

   C 天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に、憲法99条の義務が課せられている。これらの者は国政を運用する立場にあり、事実上からいっても、憲法に違反する可能性が最も大きいのみならず、彼らが憲法を無視した場合には、その弊の及ぶところ広汎で、憲法の運命をも左右するに至るものであるからである。ここにいう国務大臣には、当然内閣総理大臣が含まれる。また公務員の語も、第15条や第17条の場合と同様に、国家公務員法にいう公務員に限られず、広く公務を執行する職務を有する者を含んでいる。従って、地方公共団体の議員や吏員が含まれることは、いうまでもない。

 

   D 「尊重する」とは、憲法を遵守して、これに違反せず、更にその目的を実現することに力を尽くすことをいう。公務員は、自己の職務を執行するにあたり、この憲法の規定を厳守し、更に憲法の意図するところを具現してゆかねばならない。「擁護する」とは、憲法を侵す行為を防圧するという受動的意味である。憲法の運用の任に直接たずさわる者は、自ら憲法に照らして誤たない行動をするのみでなく、憲法を尊重しない行動、例えば合憲法的に成立した政府を暴力でもって破壊しようとする行動に対しては、これと闘争する義務を負わしめられているのである。

 

   E 最後に、憲法99条の義務の性質が問題となる。本条に定める公務員の義務は、倫理的性格をもつものであって、法律的というよりも道徳的な要請であるということができる。従って、この義務に違反した場合に、直ちに本条により法律的制裁が加えられることはない。その意味で、別段の法律上の意義はもっていない。併し、公務員が国家の根本法を侵犯することにより何らかの責任を生ずることは、当然である。第一に、本条の趣旨をうけて、法律により、憲法尊重擁護義務の違反に制裁の加えられることは多い。国家公務員の懲戒事由(国家公務員法82条2号)となり、裁判官の弾劾事由(裁判官弾劾法2条1号)となっている職務上の義務違反のなかには、憲法を遵守しない行為が含まれ得るであろう。かくのごとき法律による制裁の裏づけをもったとき、本条の道徳的義務は、法律的義務に昇華するであろう。第二に、法律的制裁が加えられなくとも、政治的責任を生ずることがある。

 

     以上が憲法99条の確定された解釈論である。

 

     被告らが憲法99条の憲法擁護義務を負っていることはいうまでもない。そればかりでなく、被告らが更に負うべきは、以下の憲法破壊者としての責任である。

 

   被告らの行為は、憲法の破壊である。

 

   @ 政府が明らかに違憲の法律を制定しようとするとき(憲法の破壊の場合)の国会議員の憲法擁護義務は、以上の憲法擁護義務を一歩超えるものとして同日に論ずることは出来ない。

 

明らかに違憲の法律を制定しようとする政府の行為は、憲法の破壊行為であり、この法律の制定に国会議員が賛成することは、憲法の破壊に手を貸すことになる。明らかに違憲の法律を制定したいのであれば、まず、憲法改正手続に則り、改憲し、その後に改憲した法に添う法律を制定すべきである。本件の改正教育基本法は、法律の改正の域を超えた憲法の破壊である。憲法擁護義務を超えて、憲法の破壊に手を貸そうとする国会議員に対しては、特別の法律を待つまでもなく、本件で、損害賠償等法的責任を追及できると解すべきである。

 

   A さらに、その憲法の破壊行為の手段が非常に違法な手段で(本件の「やらせタウンミーティング」が正にそれに該当する)違憲の法律を制定しようとしたとき、そして、その違法操作について内閣総理大臣その他関係責任者が法的責任(報酬等国庫に返納、国家公務員法、各府省内規に基づく訓告、厳重注意処分等、本件の「やらせタウンミーティング」による責任が正にそのようなものである)を負った場合、それにもかかわらず、あえて違憲の法律を制定して憲法を破壊しようとしたときは、何らの特別の法律を待たずに国会議員に対して、損害賠償等法的責任を追及できると解すべきである。

 

 2、被告らの適正手続による公正に法律を成立させる義務と全体の奉仕者

 

  ⑴ 被告らは、日本国憲法に則り、公選による選挙制度により選挙された国家公務員である(公職選挙法第1条、国家公務員法第1条、2条)。

 

⑵ 国家公務員の地位は、憲法15条、73条、前文により、主権者たる国民の厳粛な信託に基づくものである。

 

⑶ 国家公務員は、故意に、憲法及びそれに基づく法律又は法律に基づく命令に違反し、又は違反を企て若しくは共謀してはならない(国家公務員法第1条2項、3項)と定められており、国家公務員法上も、被告らは、憲法・法律・命令の遵守義務がある。

 

⑷ 従って、被告らは、憲法31条に従い、適正手続に則って法律を制定する義務を有しており、内閣総理大臣や関係公務員が、国家公務員法、各省庁の内規により処罰を受けた「やらせタウンミーティング」による世論操作による改正教育基本法を成立させてはならない義務を負っている。

 

  ⑸ 少なくとも被告らは、改正教育基本法の成立に際し、成立に賛成してはならない義務を有しているのに、被告らは国家公務員としての義務に違反して賛成し、改正教育基本法を成立させた。

 

  ⑹ 被告らのこの義務違反は、全体の奉仕者としての国民の信託に反し、具体的には、国家公務員法違反であり、被告らは損害賠償等法的責任を取らねばならない義務違反行為をした者である。

 

   以上のように被告らは、公職選挙法、国家公務員法に基づいても、法的責任を有するのである。

 

 3、公選による資格取得と憲法擁護を期待している選挙民に対する義務

 

  ⑴ 以上のように、国会議員は、憲法、法律、規則の擁護義務があり、憲法違反の法律を制定することは出来ないのである。

憲法違反の法律を制定する必要性に迫られた時は、安直に違憲の法律を制定するのでは無く、まず、憲法改正手続に則り、憲法を改正し、しかる後必要とされる法律の改正をすべきである。

このことは、近代国家である立憲国家の自明の理である。グローバルな世界共通の原理である。

 

⑵ 日本が、いかに遅れて近代国家になったとはいえ、この自明の理に反することは出来ない。

憲法違反の法律の制定は、法改正ではなく憲法の破壊である。

憲法の破壊者である国会議員に対しては、憲法、公職選挙法、国家公務員法により、それ相応の責任が課せられるのである。

 

⑶ 以上のことは、憲法が国会議員等に対し、憲法擁護義務を課し、国民が、国会議員が憲法を擁護することを期待して、公選により、国会議員として選出している以上、当然のことである。

 

⑷ 憲法違反の法律の制定(憲法の破壊)を公然と許すことでは、憲法の存在理由は有名無実であり、いかなる立憲主義近代国家においてもそのような憲法の破壊は許されないのである。

 

⑸ 安倍総理以下、改正教育基本法の制定に賛成し、同法を制定した国会議員は全て、日本国憲法の破壊者としての責任を取らなければならない。

 

 

第6、損害

 

被告らは、前代未聞の日本国憲法の破壊行為を行った者であり、憲法上、公職選挙法上、国家公務員法上の重大な責任を負わなければならない。

単なる損害論の域を超えた甚大な損害を被告らは、選挙民であり主権者である原告らに与えたもので、正に懲罰的損害論が予定している損害を原告らに与えた場合に当たる。

以上のような視点から、原告らは被告らに、請求の趣旨第2項の損害を請求する。

 

 

第7、結論

 

   以上詳細に論じてきた通り、改正教育基本法は、単なる法改正ではなく、憲法の破壊行為である。

被告らは、その破壊の手段として違法な「やらせタウンミーティング」を行い、世論を誤操作、誤誘導したのである。

被告らは、憲法99条(憲法擁護義務)及び99条の内在的違反、国家公務員法違反等により、被告らに法的責任があることは明らかである。

   よって、請求の趣旨記載の本訴に及ぶ。

 

以上

 

 

( 証  拠 )

 

1、甲第1号証  日本経済新聞 記事抜粋         1通

(2006.12.18付「改正教育基本法の全文」)

 

2、甲第2号証  『なぜ変える?教育基本法』抜粋     1通

 

3、甲第3号証  朝日新聞 記事抜粋            1通

        (2006.12.15付「首相、報酬100万円返上」)

 

4、甲第4号証  朝日新聞 記事抜粋            1通

        (2006.12.16付「やらせ問題、26人処分」)

 

5、甲第5号証  朝日新聞 社説             1通

         (2006.12.14付「やらせ発言―こんなショーはいらない」)

 

6、甲第6号証  判例                 1通

(昭和27()23号、同年108日大法廷判決)

 

7、甲第7号証  判例                  1通

         (警察予備隊違憲訴訟判決)

 

 

 

( 添 付 書 類 )

 

1、甲各号証     各1通

2、訴訟委任状      通

 

 

 

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