趣 意 書
2007.3.5
「えひめ教科書裁判を支える会」
「杉並の不当な教科書採択取り消し裁判の会」
教育基本法改悪違憲、地元選出国会議員に対する損害賠償訴訟
― 教基法は改悪された、されど、どっこい、主権者は健在だ! ―
第1、新たな訴訟
この度、改悪された教基法は、違憲で無効であることの訴訟及び改悪教基法の成立に賛成した国会議員について、各地から、地元選出国会議員に対し、損害賠償訴訟を提起しようとしています。
先例の全く無い訴訟で、理論上も非常に困難な訴訟ですが、衆知を集めて克服し、裁判にこぎつけようとしています。
この度の訴訟は主権の実現として、必ず、行わなければならない訴訟です。そもそも日本では、主権実現方法として裁判闘争をするという考え方がありません。しかし、選挙権の行使と裁判による牽制は一体となったものです。それを別々のものだとわれわれは洗脳されています。これを機会に、主権実現の多様性を取り戻さなければならないのです。
今回がその良い先例になるようにしようと思っています。
違憲・違法な法律を作っても、簡単には市民はあきらめない。また、憲法や教育基本法の制定によって、植民地等の支配責任等に代えるという措置を受けた深刻な利害を有する近隣諸国の市民もこれを許さないだろう。人民が国境を越えて連帯し、主権者である意地を見せる必要があります。違憲立法は、主権の侵害の第一ラウンドに過ぎず、最終ラウンドでは無いことを実証するのです。
第2、主権実現方法としての裁判闘争
1、主権の行使方法
日本において、主権者としての主権の実現方法としては、㈠選挙権の行使による間接民主制、㈡選挙権を行使して選んだ国会議員が、憲法、法律の規定を裏切った場合の裁判で牽制することによる主権の実現、㈢ビラ、デモ、座り込み、文書、インターネット等による直接民主主義的主権の行使があります。
2、マインドコントロール
ところが、為政者は、主権の行使方法を㈠の選挙権の行使に限り、(その上、利権のからみがあって正当に選挙権を行使しないこと、小選挙区制等の不当選挙、日本国籍のない定住者の選挙権を認めないこと、個別訪問の禁止、ビラの数等の制限、既成政党の優遇等の選挙方法の制限、地域による一票の格差等、選挙権の行使を非常に制限的に規制し、真の主権の実現を困難にしている)、㈡の裁判闘争は、容易に諸国民が連帯して行使することが出来るので、その連帯を阻止しようとして、裁判が主権の実現のための制度ではないとし、裁判は「紛争の解決」であることを強調して、主権の実現とは切り離し、㈢の直接民主主義的主権行使の手段については、表現の自由の問題、思想、信条の自由の問題として(当然にそのような自由の問題ではあるが)、本質的には主権の実現方法であることを隠蔽する種々のマインドコントロールをかけられ、われわれは、このマインドコントロールに支配され、主権の実現を妨げられてきました。
3、主権実現の方法としての裁判(特に行政裁判)闘争
⑴ 本来、選挙権を行使して、国会議員等を選出するだけでは、主権を本当に行使したとはいえません。
選出された国会議員等が憲法を尊重擁護せず(憲法99条)、違憲の法律を作ったり、その他法律の規定を無視し、国政を信託された者として、その信託に反する行為をしたとき、われわれ主権者としては、国会議員を牽制し、本来の職務を全うしてもらう必要があります。そのため裁判は必要不可欠です。
つまり、選挙権の行使という主権の行使をフォローする方法が当然必要です。そのフォローの仕方が裁判なのです。選挙権の行使と、行使した結果生まれた国会議員が期待を裏切り信託関係を壊した場合に、牽制の裁判をすることとは、本来、一体となったものです。そのどちらが欠けても十分な主権の行使といえないのです。さらにいえば、日本では牽制の裁判を欠いているので、選挙権の行使だけでは意味が無いと思う人が多く、選挙の投票率が落ちているのです。
⑵ このように選挙権の行使と、その後の牽制の裁判は、主権の実現としては本来一体となっているものです。
ところが、為政者がわれわれにマインドコントロールをかけて、選挙権の行使は、選挙権の行使だけ、裁判は「紛争の解決」の問題で、デモ等は表現の自由の問題であるとして、それぞれ分断され、主権の実現とは別物とされています。これまでわれわれ主権者は、このマインドコントロールにうまくひっかかってきてしまったのです。
⑶ このようなマインドコントロールから、まず、われわれは解放されなければなりません。
4、主権者が裁判に目覚めることを恐れる為政者
⑴ 本来、主権者は、政府や国家に対し、自分たちが国家の主権者であり、国家の政策を決定する主体であること、国会が決め、内閣が実行した政策が違憲であったり、民意に反していた場合は、彼らはその責任を問われ、私たち主権者は、その責任を問わなければならないという主権としての当事者意識がなければなりません。そして、そのような主権の実現のためには裁判闘争が必要不可欠です。裁判は、目の前で結果が明らかになること、何度でも行使できることなど、主権の実現としてこれほど貴重なものはありません。ところが、日本の為政者は市民が主権の実現としての裁判闘争に目覚めること、さらには、近隣諸国民が植民地支配責任等を追及するため、連帯して裁判闘争をすることを極度に恐れ、種々のマインドコントロールをかけるだけではなく、特に日本では、裁判制度自体を極めて利用しにくい制度にして裁判権の行使を妨げています。
日本の裁判制度は、世界的に見ても、異様なほど利用しにくいものになっています。逆にいえば、市民を抑圧する国ほど、裁判制度を市民が利用しにくいものにする典型例です。
そこで、日本の裁判の概要をみてみることにします。
⑵ 裁判所の国家予算(2006年度)(裁判所データーブック26頁)
予算総額 79,686,000,000円(単位千円)
裁判所予算 333,106,391
国の予算に対する割合 0.41パーセント
三権分立の一翼を担う司法でありながら予算的には0.4パーセント
⑶ 裁判官数(同28頁)
アメリカ 3万1574人 人口 2億94万人
イギリス 3817人 人口 5300万人
ドイツ 2万395人 人口 8000万人
フランス 5645人 人口 6000万人
日本 2535人 人口 1億2000万人
日本 アメリカ、ドイツの10分の1〜5分の1
イギリス、フランスの3分の1〜5分の1
⑷ 行政事件数(「建築紛争」五十嵐外著、岩波新書、194〜195頁)
相手方の手持証拠の開示制度が無い日本では、訴訟が極めて困難であるので、極端に少ない。
件数 人口比 日本基準に直すと
アメリカ 4万4000 2万2000件
イギリス 4247 9600件
ドイツ 51万 77万件
フランス 12万 24万件
日本 2000 2000件
(諸外国では人口比率的にみて行政裁判が選挙権のフォローの役割をもしていることが明らかである。)
(訴訟数も、日本では、人口比でドイツの数百分の1、韓国・台湾の数十分の1にとどまる。インターネット「行政訴訟のパラダイム転換」阿部泰隆神戸大学大学院教授)
⑸ 情報公開
ドイツではナチスの反省から、ドイツの官僚には詳細に記録を残す義務が課せられ、それらを訴訟で提出義務がある(「よくなるドイツ、悪くなる日本」関口博之著、地湧社、3頁)。
⑹ 官僚裁判官だけでなく、裁判への国民の参加が一般的である。
陪審制 アメリカ、イギリス
参審制 ドイツ(プロの裁判官1人ないし3人に市民2人ないし3人)
フランス(プロの裁判官3人に市民9人)
陪審・参審併用 スウェーデン(出版、表現の自由に関する犯罪は陪審、その他は参審)
⑺ 日本の民訴法等は、手持証拠の開示義務(ディスカバリー)、懲罰的損害賠償制度を定めていません。ディスカバリーが無いので、行政訴訟を提起した市民側が負けることは目に見えています。また懲罰的損害賠償制度が無いので、原告側に損害が無いので、その余の点を判断するまでもないという理由で、敗訴となるのです。裁判所は靖国訴訟等、まともに判断すれば国側の敗訴となる訴訟で、国側を勝たせる常套手段として、「原告側に損害が無い」という理論を用います。
⑻ 印紙代
アメリカでは印紙代は一律100ドル(12,000円)程度。
日本では訴額に応じて高騰し、100万円の訴額で印紙代1万円、1億円の訴額では32万円です。
⑼ クラスアクション(集団訴訟)も日本には無い。ある行為や事件から同じような被害を受けた者が多数いるとき、日本では、一部の被害者が全体を代表して訴訟を提起することを認める制度であるクラスアクションが無く、印紙代が高額になるので、集団での訴の提起が非常に困難です。
⑽ 映像等ITの極度の利用制限
裁判を筆記と聴覚だけに限定して、映像化せず、またインターネットで広域に瞬時に報道されることを嫌い、前近代的な方法だけに固執しています。
⑾ 裁判官のヒラメ化とヒラメ裁判官による門前払い訴訟の横行。
為政者は、裁判官に対する報酬、任地を恣意的に運用して、裁判官が政府や最高裁の意向を極度に気にする体質にし、そのようなヒラメ裁判官によって国や行政機関に対する重要な裁判であればあるほど門前払いの裁判をするようにしむけています。
諸外国においては、門前払いを主とする日本とは全く逆に、訴えの提起と同時に原処分関係一件書類を裁判所へ送付させ(ドイツ財政裁判法71条2項)、裁判所の釈明義務を明定し(ドイツ行政裁判法86条3項)、関係人の主張及び証拠の申出に拘束されることなく職権による証拠調べができるものとし(同法同条1項)、あるいは、文書提出命令の根拠を定めて(同法99条1項)、当事者間の不衡平の平準化を図るとともに、形式的真実発見に甘んずることなく、できるだけ実体的真実発見の理想に近接することを目指しているのです。(「紛争の行政解決手法」南博方著、有斐閣63頁)。
このように、日本と諸外国とでは、門前払いと真実発見の究明、当事者間の不衡平の是認と不衡平の平準化という雲泥の差があることを知らなければなりません。
⑿ 以上のように、日本では裁判をすることを非常に困難にして、市民から裁判を遠ざけています。その結果、日本では主権の実現が非常に困難になっているのです。
そこで、国は豊かで世界経済ランキングの上位にありながら、市民の大半は生活に苦しんでいるのです。
5、裁判の勝ち負けをどう考えるべきか
⑴ 日本の裁判はヒラメ裁判官といって、政府や最高裁等、上の方ばかりを気にする裁判官がします(2004年10月19日朝日新聞)。
そこで、行政事件の「国民」の側の勝訴率は異常に低くなっています。
このようなヒラメ裁判官が担当し、行政機関の手持証拠を出させる手段もなく、裁判で勝訴することは例外的なことです。
判決結果による勝訴という観念を変えなければ、勝訴の可能性が無いので裁判することをあきらめ、為政者の洗脳に陥ることになります。
⑵ 裁判が主権の実現の方法としての手段であるなら、ここにおける敗訴とは、主権の実現の方法としてあまり有効なことが出来なかったことをいい、判決結果による裁判の勝訴、敗訴とは別に考えるべきです。
愛媛の例では、教育委員会の公開の裁判を提起したところ、それまで非公開であった委員会が公開になりました。
このように、裁判の結果だけでなく、裁判の過程も裁判の効果として考える必要があります。
⑶ なによりも、公務員は、「国民」の信託によるものであり(憲法)、「国民」に責任をとるものです。ところが現実には、国や上司に対して責任を取り、「国民」に責任を取っていません。それが、人民から責任追及の裁判を提起されると本当に驚きます。裁判を提起することは、そのように大きな意義があるのです。
6、敗訴が「先例・判例になる」という考えにどう対処するか
⑴ 日本の裁判は、判例法主義ではありません。従って、同種の先例の裁判があっても、それに拘束されることはありません。
実際上は参考にはされますが、それぞれの裁判で争い方、証拠の内容も異なり、全く同一の裁判というものは無いので、先例を引用して同一の結論とするという方法は判例法主義では無いのでしません。
⑵ 全国で裁判のある靖国裁判、住基ネット裁判等、多数の裁判があり、主権者の観点から多少は好ましい判決もありますが、決して先例、判例にはなっていないのが実状です。
⑶ 先例、判例になるので安易に裁判を起こすべきではないというのは、「ための理由」の側面が強く、従来の勝ち負け観に基づくマイナスの側面だけを取り上げているのではないでしょうか。
⑷ 「安易に起こした裁判」が後々の先例、判例になると批判がありますが、そのような提訴が中味のある裁判にはなりません。「安易な裁判が先例、判例」になるということはあり得ないことであり、自己矛盾を言っていることが明らかでしょう。
⑸ 敗訴は、先例、判例になるというのも、裁判を利用させないようにする為政者の人民に対する洗脳、マインドコントロールの一方法であるということに気づいて下さい。
7、主権の実現方法としての裁判闘争における裁判のやり方
⑴ 主権を実現する方法としての裁判闘争という視点から、従来一般的にされてきた法廷での裁判のやり方を見直し、新たな裁判のやり方を創造する必要があると思います。
⑵ 従来の裁判を一応振り返っておきます。
@ 裁判官を必要以上に崇め奉る。関係者は、裁判官の心証を害しないよう細心の注意をし、へりくだる。
A 諸外国の10分の1の裁判官数で、手抜きの裁判をするため、法律にある口頭弁論主義も「陳述します」と言えば、何十ページもの訴状、準備書面も、口頭でその内容をすべて述べたことになる。そのため裁判傍聴人は、傍聴してもどんな裁判か全く解らない。
B 訴訟が裁判をするに熟したと判断するか否かは、裁判所の専権に属するとして、安易に結審をして、門前払い判決をする。
C 裁判所は、原告・被告の証拠収集に対する力の不衡平を平準化するための釈明等の訴訟指揮をしない。
D 裁判は形式的真実発見ではなく、実態的な真実発見のための制度であることを理解せず、実体的真実発見の究明をしようとしない。
E 弁護士は、主権者との関係では、裁判官に次ぐ第2の権威者であり、裁判の一翼を担う者として、裁判所に取り込まれ、裁判官の下請け的な役割で、裁判官としてはやりづらい非民主的な面を(例えば、素人は発言すべきではない、心証を害するな、静かにせよ等)依頼者、傍聴人に命令する。いわば軍隊でいえば下士官である(上官が裁判官)。
弁護士を、主権者よりは一段上、裁判官よりは一段下に位置させることが、当局による巧妙な主権者の分断作戦であることに気付かなければなりません。このことにいかに早く気付くかが、裁判闘争の基本です。
F 傍聴人は全く静かに、行儀良く、裁判の進行を静視する役割だけが与えられていて、主権者としての意思表示(例えば拍手)をすることも許されない。足を組んで座ることさえ許されない。
⑶ しかし、裁判は、裁判官だけがするものではありません。
裁判官の最も重要な役割は、法廷を、自由で何でも言える雰囲気にして、原告・被告に、主張、立証を十分にさせて、それがかみ合うようにして、自ら、争点及び立証の程度が浮かび上がるようにすることです。
法廷を堅苦しい雰囲気にして、言いたいことも言えなくすることではありません。
裁判官は当事者の言い足りないところを見つけて、それを引き出すように工夫すること、当事者の主張、立証がかみ合うよう交通整理をすることがその役割です。
そうすれば、自ら、争点、立証が明らかとなり、予断に満ちた権力者寄りの一方的な判決にはならないはずです。主張上も、証拠上も、また裁判進行上、訴訟指揮上も、裁判官に不当判決を書かせない態勢を、原告、傍聴人、さらには広く主権者、弁護士が協力して作り上げるのです。
裁判官に、判決は主権者全体で作り上げるものだと実感させる必要があります。
⑷ 裁判は、形式的真実の追及だけではなく、実体的真実の追及が当然の前提です。そのためには、原告・被告間に、証拠資料の収集に関する力の衡平がなければなりません。力の衡平は、裁判所の釈明権の行使等でなされるものです。
裁判所に、当事者の衡平と、実態的真実の発見の任務があることを、機会のある度に要求していく必要があります。
⑸ 弁護士の役割は、裁判所の下請、下士官に堕することなく、徹頭徹尾依頼者の側に立って、裁判官を監視し、牽制すること、依頼者の言い分を裁判官が理解できるような文書にして提出し、立証することです。
法律家としての弁護士には、主権の実現方法としての裁判闘争においては限界がある場合があります。常識的な法律家としては、やれることに限界があるのです。愛媛では、そのため、わざと一部を本人訴訟、残りを弁護士依頼の訴訟として、本人訴訟で自由奔放にする面と、法律的に裁判官を牽制する面との両立を図っています。
本人訴訟で自由奔放にする面に対し、相手方弁護士の異議や裁判官からの制約が入った場合に、それに対して弁護士は法律家として闘うのです。このように、これまでにはない創造的な裁判闘争をして、弁護士と原告本人との任務分担をして、主権実現を図るのです。
⑹ 書類等も、傍聴人に解ってもらう必要のあるもの、裁判官によく理解させておく必要があるものは、全文を本人訴訟の本人らが朗読します。
⑺ 本人訴訟の原告は、裁判所の訴訟指揮に対し、主権者は市民であるという観点から注文をし、異議を言います。
また、準備書面等の内容の説明や全文朗読を要求し、実現していきます。
毎回、その法廷での裁判長の訴訟指揮に対する異議の準備書面、口頭弁論調書に対する異議申立等、これまでの裁判闘争には無い闘争方法をとる必要があります。
書面も、本人訴訟の原告が書くことによって、これまでの裁判のカラクリが良く解ります。本人訴訟の原告の中には、今では、「裁判が趣味」であると言い出す人さえ出てきています。
⑻ 傍聴人の役割も大事です。主権者として、裁判を傍聴しているのであり、拍手等の意思表示は当然であり、解らないところは解らないと異議を述べて、裁判公開の実質的な意義がある裁判を求める権利があります。傍聴人には、裁判が解るように要求する権利があるのです。
今後は、傍聴人の権利の実現の観点から、裁判官の訴訟指揮に対する異議の準備書面を出す必要、裁判官にこちら側が出した準備書面を十分に読ませる工夫の必要があります。
このような圧力を裁判官に示すところに裁判傍聴の意義があるのです。
裁判の傍聴とは、裁判で何がされているか、単に、静かに見に行く、聞きに行くことだけではありません。
主権者として、裁判の進行を監視、牽制に行くのです。傍聴人としての権利があってしかるべきです、この点の内容も、今後追及していかなければなりません(傍聴人にメモをする権利等、要求していかなければ、傍聴人の権利性を充実していくことができないのです)。
⑼ 映像の利用
集団的な人間関係において、社会一般に通常利用されている映像、インターネット等は、裁判においても利用すべきであると要求する権利が、裁判利用者にはあります。このような権利性の主張をしなければ、いつまでたっても為政者は人民を不自由な立場に閉じ込めたままです。
⑽ 以上はその一部ですが、このようにして、従来の裁判とは異なる主権の実現方法としての裁判のあり方を、今後とも種々工夫して追及していこうと考えています。
⑾ 何よりも、日本で現在行われていることは、世界的基準で見ると、相当遅れているということを自覚しなければなりません。
法律の雑誌でも、「遅れている日本の人権感覚」(「国民の憲法意識―日本とアメリカ―」藤田泰弘、判例タイムズbP225、76頁)が当たり前に言われているのは情けないことです。
それでも為政者は市民の人権意識の向上、裁判闘争をおそれて「人権だけを食べ過ぎれば日本社会は人権メタボリック症候群になる」(伊吹文科学相の長崎における自民党大会での発言)(2007年朝日新聞社説)という市民が人権に目覚め、裁判に関心を寄せることに対する牽制を常にしています。
8、以上のような主権の実現としての裁判闘争を全国的に展開する予定です。
以上