平成18年(ワ)第20396号 安倍晋三等に対する損害賠償請求事件

第一回口頭弁論(2006.12.15)関連書面

意見陳述書(1)

意見陳述書(2)

意見陳述書(3)

意見陳述書(4)

意見陳述書(5)_


意 見 陳 述 書 (1)

 原 告  W.Y.     

 2006年12月12日

  東京都杉並区 (山田宏区長)は、昨年8月、安倍晋三、自民党が教育基本法第10条等に違反して政治的に介入し、採択を推進した「新しい歴史教科書をつくる会」主導の扶桑社版歴史教科書を採択しました。私はその杉並区在住の原告です。 

 現在、教育基本法「改正」案が参議院で審議されています。これは「つくる会」教科書と切り離せない関係にあります。

 もとより教育基本法は戦前の国家主義的教育の反省の上に立ち、日本国憲法に基づき、その精神を教育に実現すべく制定されたものです。安倍晋三首相他国会議員には憲法遵守の義務が定められており、日本国憲法が生きている現在、その精神に基づく教育基本法を変えることは憲法違反です。 

 2005年9月11日の総選挙では「郵政民営化」のみが争点とされ、教育基本法については争点とされませんでした。つまり、教育基本法「改正」について、国民はまだ意見を聞かれていないということです。総選挙の結果、多数与党が成立しましたが、それは教育基本法「改正」案を成立させてもいいという国民の意思ではないのです。世論調査で自民党支持者の過半数が「慎重審議」を求めている(日本経済新聞による)ことでもそれは明らかです。 

 それにも関わらず安倍首相を初めとする政府与党は開き直り、公聴会には謝礼まで払って「やらせ」の発言をさせ、意見を言おうと挙手する参加者には意見も言わせず、国民の真意を問うこともせず、衆議院では野党の欠席の中、数の力にまかせて強行採決しました。これほど国民を愚弄したやり方があるでしょうか。これこそがまさに教育基本法第10条違反であり、国民主権をうたう憲法違反であります。 

 教育基本法「改正」案は、教育への国家の介入を禁じた10条を廃止し、戦前と同じ国家主義教育を復活させることを目的としています。アジア諸国の3000万にのぼる人々を殺戮し、自国にも多大な犠牲をもたらした悲惨な戦争の教訓から、これを二度と繰り返すまいと教育基本法を制定したのに、その教訓を忘れ、今、日本はまた同じ道を歩もうとしています。 

 私たちがこの裁判で提起した「つくる会」教科書は教育基本法改悪を前倒しして、戦前と同じ国家主義的教育を推進する具体的な道具です。訴状に書いたように、教育基本法「改正」と同じく、安倍晋三、自民党の政治的な介入によって推進されてきました。 

 「つくる会」教科書を使っている杉並区 では、教育基本法がすでに改悪されたかのような、子どもたちや教員の自由を奪い、すべてを区や教育委員会が押し付ける統制教育が行われています。そして「つくる会」教科書は「国のため」に喜んで命を捨てる子どもを作り出そうとしています。戦争というのは、アメリカを見ればすぐにわかるように、世界で最も強い国が他国を経済的に支配する手段であり、他国民はむろんのこと自国民の命をも虫けら以下にしか思っていない権力者が、それを商売に利用する財界人とつるみ、まさに「金もうけ」のためにやるものです。戦争のできる国になるということは、闇の中にいる人間の形をした悪魔の、そんな忌まわしい欲望のために、私たちの子どもたちが人を殺し、殺されるようになるという意味に他なりません。 

 私たちは弁護士もなしに、本人訴訟で、国家権力の中枢である安倍と自民党を訴えました。もはや日本は戦争のできる国になる、そのぎりぎりの崖っぷちにいる、いいえ、もう半分落ちかかっているからです。一人の大人として何もせずにはいられないのです。私たちの子どもたち、そして将来彼らに殺される外国の子どもたちの命を守りたい一心です。そしてこの気持は私たち原告のみならず、庶民なら誰でもが持っている当たり前の感覚なのです。裁判官のみなさまには、この庶民の必死の思いを汲み取っていただきたいと思います。 

 人間には「人間の尊厳と誇り」というものがあるはずです。戦前、国家権力に統制され、「戦争反対」とも言えずに「国のため」に死ねと教えられた私たちの両親、祖父母たちは、戦争が終って心の底から喜び、犠牲者の死を悼み、平和が続くことを願ってきました。自民党の大物政治家であっても、故後藤田正晴氏や故箕輪登氏、野中広務氏のように戦争体験のある方々は、戦争に対して非常に敏感かつ慎重であり、改憲などとんでもないと言っています。財界人にも一兵卒として戦争に参加し、戦争の残酷さを二度と繰り返してはいけないと説く品川正治さんのような方もいらっしゃいます。そこにどんなに巨額の利益があろうと戦争だけは絶対にやってはいけない、これが「人間の尊厳と誇り」というものです。戦争体験者である彼らの気持を受けつぎ、平和をこそ守っていかなければならないのです。 

今なら、まだ止めることができます。その力が裁判官、あなたにはあります。そして、私たち大人一人ひとりにあります。 

裁判官のみなさまは絶大な権限を持っておられます。「人間の尊厳と誇り」に基づき、あなたの良心と良識を生かした判決を出せば、その影響力は計り知れません。あなたが日本を戦争のできる国にすることを止めることができるでしょう。何千、何万という若者の命を犠牲にしないですみます。日本国憲法の成立過程を考え、憲法を遵守し、教育基本法の理念を実現する方向でこの裁判に関わってくださるよう、心からお願いいたします。  

以上                  


意 見 陳 述 書 (2)

2006年12月11日

                          原 告  T.E.

 安倍裁判で一人の母親として訴えたいこと 

 私は、学問を学ぶ時、科学的・客観的に対象を見ることを基本的な態度としています。そして、子供にもそうしてもらいたいと思うし、子供が実際に通う学校でも、「科学的なものの見方ができるようにする」という目標が、教育目標として掲げられています。それは、理数系分野に限らず、文学・歴史学・法学・経済学など文系分野においても同様であると思いますし、それが、現代においては、真理を追求するあらゆる学問を学ぶうえで、もっとも重要で、基本的な態度であると思ってまいりました。裁判官の皆様も、そのように法学を勉強なさってきたと思いますし、そして、今この瞬間も、客観的・科学的なものの見方、中立的・公平な立場で、この法廷にのぞまれているのだと思います。 

 では、私たちが問題にしている、「つくる会」の歴史教科書は、客観的な立場で歴史を扱っているでしょうか。「つくる会」のホームページの「主張」にはこう書かれています。 

「日本はどの時代においても世界の先進文明に歩調を合わせ、着実に歴史を歩んできました。欧米諸国の力が東アジアをのみこもうとした、あの帝国主義の時代、日本は自国の伝統を生かして西欧文明との調和の道を探り出し、近代国家の建設とその独立の維持に努力しました。しかし、それは諸外国との緊張と摩擦をともなう厳しい歴史でもありました。私たちの父母、そして祖先の、こうしたたゆまぬ努力の上に、世界で最も安全で豊かな今日の日本があるのです」 

 「つくる会」の教科書には、この「主張」がとてもよく表れていると思います。自国への愛に満ち溢れ、自国の誇りを取り戻そうとする意欲が、この主張には示され、そして教科書に表現されていることを、「つくる会」の方々も否定しないでしょう。 

 しかし、このような自国への愛に満ち溢れた向き合い方が、果たして歴史を見渡し、過去の真実を見極める態度として適切なのでしょうか。歴史の真実などない。その時代に生きる人々の価値観は異なるから、としばしば言われます。それでも、真実を求め願うのが人間であり、できるだけ曇りのない眼で過去と向き合い、客観的に評価・検証していくことが歴史を学ぶ上での基本的な態度なのではないでしょうか。自国への愛を通してしか過去を振り返り、語れないのなら、検証など何の意味があるのでしょう。それは、いわば痩せて見える鏡、うぬぼれ鏡のように自己の姿を写し出すのではないでしょうか。 

 そして、被告である安倍晋三氏は、どうでしょうか。平成17年の歴史教科書の採択について、当時多数派政党の幹事長であった彼は、客観的・中立的・公平な立場でのぞんでいたでしょうか。 

平成15年から17年にかけて、全国の地方自治体では、「教科書採択の適正化」と称し、採択の規定や規則がどんどん変わっていきました。採択の適正化の内容は、つくる会が平成9年に設立して以来、主張し望んできたものです。つまり、採択地区を細分化し、教育委員会以外の調査機関や区民・教員意見を下位の存在に落として教育委員の権限を強化し、たった5人程度の教育委員によって、子供たちの教科書を選べるようにしました。また従来から採択の前提としているはずの学習指導要領について、その目標の重視をわざわざ採択規則に盛り込みました。これらの提案は、採択までの2年ほどの間に、驚くほどやすやすと可決・採択され、最終的には文科省の通知として教育委員会に通達され拘束力を強化されました。 

裁判官の皆様は、規則が、こんなにもやすやすと変えられてしまう現状をどのようにお感じになられるでしょうか。法を守られるお立場として、何をお感じになるでしょうか。

なぜ、こんなにもたやすく規則が変えられるのでしょう。 

その理由が、安倍晋三氏の違法な介入です。彼が所属する「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は平成92月、「つくる会」の設立と同時に設立し、設立当時、安倍氏は事務局長を務めていました。安倍氏が所属するこの「議員の会」は設立以来、常に「つくる会」の応援をし、議員の会のメンバーは、地方自治体の議会において、採択までの数年にわたり、「つくる会」のニーズにマッチした「採択の適正化」を提案してきました。つまり、「つくる会」の教科書が採択されやすい環境づくりを行ってきたのです。そして平成16年、当時自民党幹事長であった彼は、「つくる会」のシンポジウムに出席し、応援挨拶を行いました。 

 このようなことが許されるのでしょうか。多数派政党の、現在の日本の政権を担う重要な人物が、ある特定の教科書を著し編纂する団体を公然と応援し、多数派政党であることを武器に、ある恣意的な方向へ採択規則を変える。これは、採択への違法な介入であり、採択の公平性に違反するものではないでしょうか。裁判官の皆様は、どのようにお考えになるでしょうか。 

規則とは、法とは、ある特定の何かを決めるためにあるのでしょうか。私は、規則や法は、何かを決めるためにあるのではなく、何かを守るためにあるのだと思ってきました。何を守るのでしょう。ある特定の思想でしょうか。そうではないと私は思いたい。法や規則については、私などより、裁判官の皆様のほうがずっとご存知です。その規則や法が、このように簡単に変えられ、曲げられてしまうことを、皆様はどう受け止めていらっしゃるのでしょう。私は、そのことの答えを、この法廷で求めています。

私は一人の母親として、これから、子供を育てていきます。その子供に、これからは、「何かを決めようとするときには、ルールを守って決めるのよ」と、自信をもって教えられるでしょうか。それとも、これからは、「何かを決めたい時には、都合のいいようにルールを変えてもいいのよ」と教えることになるのでしょうか。どうか、そのことの答えを、この法廷でお聞かせください。 

以上


意 見 陳 述 書 (3) 

2006年12月11日

 選定者 T.H.

先の大戦への深い反省から、日本国は平和主義、基本的人権の尊重、主権在民をその根幹とする民主主義国家として再出発しようとした。民主主義国家たらんとする日本を支え、維持発展させるために、不可欠なものが教育です。政府は国民から不断の批判に晒されることで、己の政策を正すことができる。それには健全な批判精神と正しい知識をもつ広範な国民大衆の存在が不可欠だ。したがって、いかなる政権も、自己に都合が悪かろうとも、教育に介入して、国民からの批判を封じるようなマネをしてはならない。 

大日本帝国において、国家権力が教育に深く介入した結果、国民は批判精神を失い、政府の暴走を止められず破滅の淵にまで追い詰められてしまった。我々の苦しみだけではなく、我等が犯した数しれぬ蛮行により犠牲となった周辺諸民族のおびただしい死や底知れぬ苦痛も、それによって引き起こされたのだ。この大日本帝国の蛮行の真摯な反省から、我等は日本国憲法を立て、その補完として教育基本法を立てたのであり、この理念に反する介入を禁じたのだ。 

我等の日本国とは、つまり大日本帝国の全否定であり、大日本帝国的なるものとの決別である。我等は、我々のかつて犯した数々の蛮行愚行やおびただしい犠牲、数知れぬむごたらしい死を直視して、真摯な反省と謝罪の上に立って世界に向き合うのだ。 

安倍晋三は、この歴史を隠蔽し改竄して、おぞましくもそれを『美しい国』などと称して国民を欺き、再び暗黒の大日本帝国を甦らせようとしている。我が日本国の根幹にかかわるこのような策謀を、日本国憲法を擁護すべき立場にありながらたくらむなどとは、もはや国家反逆罪と呼ぶべきであり、断じて許せることではない。 

以上


意 見 陳 述 書 (4)

2006年12月11日

選 定 者  T.T. 

私は、昨今、「つくる会」教科書を日本の教育の場に持ち込もうという安倍晋三氏など政治家など公の立場の人達による一連のうごきに、端的に申し上げて「耐え難い精神的苦痛」を覚えています。

 私個人は日本の加害の歴史について学校教育で余り学んだ覚えがありません。それについては自分の受けてきた学校教育には欠陥があったではないかということを、20歳を過ぎて、海外で、アジアの人達の日本への視点をおぼろげにですが知るにいたってから、ようやくかんがえるようになりました。

と、同時に、少なくとも自分の父や祖父母たちが受けたような国家主義的教育からは遠いところで、人間の個性を大切にし、自由に読み、学び、遊び、表現することを教えてくれる、学校を含めた色々な組織や人々のあいだで子ども時代を送ることができたのは私には幸せなことでした。

 今日本で育っていく子ども達には、私が学校では十分に学べなかった日本の「悪いことをした」歴史を教えて、そして、どうしたら隣の国々の人たちと日本の人たちが心をひらいて交流できるようになるかを考えてもらえる教育をするべきであって、決して過去に対して開き直る教育をするべきではないと私は思います。人間は平和こそ選べど、いかなる理由でも絶対に戦争は起こしてはいけないのであって、その時の理由はどうあれ20世紀の前半に植民地支配を行い、国家による大量殺人である戦争を起こした日本は、十分に反省をし迷惑をかけた人々・国々に謝罪するべきです。そしてどんなに過去が逃げたくなるほど恥ずべきものだろうが、逃げずに真実と対峙して、平和な未来を構築する努力を惜しんではならないと思います。そして教育は、人格形成に大きな役割を果しますから、戦争をしない・つまり絶対に人を殺さず自分や家族を殺されない人間、国をつくるための根本問題ともいえると思います。

 ところがお聞きする限り安倍さんのお言葉や行動はそういった観点に立ったものではないという気がするのです。むしろ実はその逆であるのではないでしょうか。安倍さんが一市民でいらっしゃるのならば、それでも私は何も言う権利はありませんが、仮にも主権者を代表する一国の首相がそういうことなのでは、私にはこの国にいることは精神的苦痛を伴うことであることにも等しいのです。

こういう事柄にどうしても素通りすることはできませんのでせめて形だけでもと思って名を連ねております。

以上


意 見 陳 述 書(5)

 2006年12月12日

選 定 者  T.T.

日本国憲法の下、首相になった安倍は、国民に対して憲法遵守のもとで国政に携わらなければなりません。 

そして、日本国憲法を教育において内実あるものにしていくために教育基本法があるのです。それを姑息な手段で変えることによって、憲法改正までしようという違法行為を許すわけに行きません。

私たちは現憲法をしっかり遵守し、平和で、主権在民、民主国家の実現へのたゆまぬ努力こそが、平和な国際社会の実現に欠かさないことだと思います。そしてその実現の為にこそ、教育基本法の確実な実践こそ求められていると思うのです。

したがって、教育基本法への行政の介入を許すことはできません。

以上


 

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